◆1900年代(〜終戦)
1928年
(昭和三年)
1920年代の日本はあいつぐ恐慌に見舞われた時代でした。一方、当時の長岡では、栃尾鉄道の長岡−悠久山間が開通したり、紅屋重正の前の通りである、大手通が長岡市のメインストリートとして整備されたり、上下水道が完成するなど都市としての機能整備が推し進められていました。

この年、紅屋重正は、新製品「粟羊羹」を発売しました。この新しいお菓子は、京都東山にある芭蕉堂十二世岩井藍水宗匠により、「水花火」と命名いただきました。大手饅頭に次ぐ、紅屋重正にとっての銘菓の誕生でした。
1931年
(昭和六年)
清水トンネルの開通により、上越線が宮内⇔高崎間で全通
1934年
(昭和九年)
1930年代に入ると、右翼・軍部が台頭し、日本国内のみならず、中国大陸においても、きな臭い事件やクーデターが勃発しました。海外でも、大恐慌に巻き込まれた帝国主義諸国間が対立し、またドイツやイタリアではファシズムが台頭し、世界中が第二次世界大戦へと巻き込まれていきました。

長岡にも戦争の色合いが少しずつ濃くなっていった時代です。当時の陸軍第十二師団長 東久邇宮がご来岡され、紅屋重正では大手饅頭を特製し献上しました。
1936年
(昭和十一年)
二・二六事件勃発
1937年
(昭和十二年)
日中戦争勃発
1938年
(昭和十三年)
日中戦争は、全面長期戦争へと化し、日本国民は急速に戦争体制へと動員されていきました。(国家総動員法公布)

国家総動員法により、賃金統制令・国民徴用令・価格統制令が発布され、産業統制が日増しに厳しくなっていきました。それに伴い、お菓子をつくる原材料のほとんどが統制経済下に入り、紅屋重正も製造縮小を余儀なくされました。
1939年
(昭和十四年)
第二次世界大戦勃発
1941年
(昭和十六年)
長期化、泥沼化した日中戦争は、日本国内の生活物資を極度に圧迫しました。働き手となる青年の徴兵、インフレの昴進、あいつぐ税金の加重により、国民生活は困窮を極めていきました。

戦争による統制の厳化から、菓子製造停止を懸念し、この年の十二月に、紅屋重正は新潟県知事宛に「名物菓子(大手饅頭)保護請願書」を提出しました。しかしながら、紅屋重正の願いもむなしく、同年突入した太平洋戦争により、ついに物資統制令が施行され、菓子の製造は困難を極めました。
1943年
(昭和十八年)
山本五十六元帥戦死
同年 太平洋戦争による原材料物資の統制はますます厳しくなり、小売業企業整備が行われ、ついに紅屋重正も全商品の製造販売を中止することになりました。そして、さらにつらいことに、当時の全従業員が徴兵・徴用されてしまいました。翌年、新潟県知事より、残存適格者として決定されましたが、お菓子をつくる原料もなく、またつくる職人も誰もいなくなった紅屋重正は、ただお菓子づくりが再開される日を信じて耐え忍ぶしかありませんでした。
1945年
(昭和二十年)
B29による長岡大空襲
1943年に戦士した山本五十六元帥の出身地でもあった長岡市は、八月一日の午後十時半頃から翌二日の未明までのおよそ一時間四十分の間に米軍の爆撃機B29による焼夷弾爆撃を受けました。投下された焼夷弾の量は925トン。163,000発余りが文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡市の旧市内の全てが焼き払われました。
この空襲により、学童約300名を含む1,470余名の尊い生命が失われました。
紅屋重正も、土蔵一棟を残して、店舗も工場も家屋も全て焼失してしまいました。
当時の長岡の悲惨な姿が、大手通にある長岡戦災資料館に展示されています。このときの悲惨な体験から、長岡は空襲体験を21世紀を担う次の世代に正しく語り継ぎ、平和意識の醸成を図っています。

同年八月十五日 終戦
前のページ
次のページ


Copyrights2005 Beniyashigemasa Corp. All rights reserved.