◆1800年代
1805年
(文化二年五月)
時はちょうど、文化文政。江戸を中心に町人文化が栄えた時代です。浮世絵や小説が印刷され、広く一般庶民にも行渡り、曲芸、軽演劇、話芸などの民衆芸能も繰り広げられました。日本各地への旅行も盛んとなり、江戸や上方の文化は長岡にも広く浸透しました。

この年、初代庄五郎が長岡城大手門前(現在の本店所在地)に店を構え、屋号を『飴屋』として、粟飴、蒸し菓子の商いを始め、紅屋重正の歴史も始まりました。
1841年〜1843年
(天保十二年〜十五年)
老中水野忠邦による天保の改革
1844年
(弘化元年十月)
幕府は次々と諸外国からの来航を受け、開国を迫られていました。内政面では、水野忠邦による天保の改革が行われました。文武奨励・倹約令など厳しい奢侈禁止令が出され、文化文政で花開いた文学が禁止されるなど、世の中は幕末の混乱の渦に巻き込まれていきました。

一方、紅屋重正(当時の飴屋)では、老中に出世した長岡藩主牧野候より、水飴の御用達を承りました。5年後の1849年(嘉永六年)には、長岡城への御用品納入のための御用箱に牧野家の御紋三葉柏を使用することを許可されました。
1854年
(安政元年)
ペリーの来航により、日米和親条約締結。開国。
1860年
(安政六年十二月)
安政の大獄を経て、桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されるなど、尊皇攘夷が叫ばれ、幕末の混乱が激化していきました。
そんな折、二代目庄松が屋号を『紅屋庄五郎』とし、長岡藩の菓子御用達として当時の藩主で、老中でもあった牧野忠恭公に仕えました。
1867年
(慶応三年)
大政奉還
1868年
(慶応四年四月)
王政復古の大号令に憤激した旧幕臣と新政府の間に戊辰戦争が勃発。長岡藩は徳川方に味方し、長岡藩執政であった河井継之助の下、新政府軍と戦い、敗戦。薩摩・長州の長岡城侵入により長岡城は落城。城下の家中屋敷、足軽屋敷、町家など約2500件以上が焼け落ちました。
紅屋重正(当時の紅屋庄五郎)は、戊辰戦争の際、長岡藩の兵糧方を勤め、固パンをつくって藩に納入していました。長岡城大手門前にあった紅屋にとっても、戊辰戦争の敗戦はつらく厳しい試練となりました。
1868年
(明治元年)
東京遷都
1877年
(明治十年)
自由民権運動が展開され、日本は西南戦争などの混乱を抱えつつも、近代国家へと急速に変わっていきました。戊辰戦争に敗れ、焼け野原となった長岡は、藩のお取り潰しは免れたものの禄高は七万四千石から二万四千石にまで減らされ、食糧もみるみる底をつきました。飢餓状態が続くなか、三根山藩から見舞いの米、百俵が贈られました。
しかし、藩の大参事小林虎三郎はこれを皆に分けることなく、売ってその代金で学校を建てると言うのです。 怒り狂う藩士達を虎三郎は死を覚悟して説得を続けました。「その日暮らしでは長岡は決して立ち直らない」虎三郎の説得は、やっと賛同を得て学校が建設されたのです。これが長岡の礎とも言われ、長岡の人々の心の根底にある「米百俵の精神」です。1870年(明治三年)米百俵を売って、建設された貴重な学校、それが現在の長岡市立阪之上小学校のルーツです。

明治に入り、東京で初めての内国勧業博覧会が開催されました。紅屋(当時の紅屋庄五郎)は、銘菓大手饅頭を出品いたしました。
1879年
(明治十二年)
千手町八幡神社の祭礼ではじめて、花火が打ち上げられました。 これが長岡花火のルーツといわれています。
1887年
(明治二十年)
1880年代の長岡では、「北越新聞」、「長岡日報」などの新聞が発行されたほか、石油会社、製紙工場、銀行などが設立され、近代化が進められていきました。
紅屋は、大日本帝国政府から、「菓子製造小売業許可観察」を受けました。また、紅屋の和菓子文化への真摯な取り組みが認められ、この年、土御門家より「重正」の名のりを賜り、「紅屋重正」という屋号となりました。また、1890年(明治二十三年)には、内国勧業博覧会に出品した大手饅頭で、有功三才賞を受賞いたしました。
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